私と地方競馬(1)

2025-05-05

コラム:馬を訪ねて三千マイル

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地方競馬を入口にして競馬に嵌まったダビスタ世代はほとんどいないと思う。

オグリキャップやらトウカイテイオー,ダビスタ全国版に貴重な青春時代をあきれるほど奪われた私も,ご多分に漏れず中央競馬を熱心に見ていた。はじめは後楽園の黄色いビル8階で見ていた。そのうち黄色いビルに行くのは素人っぽい感じがして錦糸町のB館8階を好むようになった。当時のB館は本当にカオスで,戦争で脚をなくした(と言っている)人や身体が不自由な人,反社会的な風体の人,コーチ屋など魑魅魍魎が跋扈する空間だった。地方競馬に興味がないわけではなかったから帝王賞や東京大賞典の日に黄色いビルの1階や大井競馬場に行くことはあったけれど,交流重賞日の後楽園や大井はとにかく混んでいた。しかも平場のレースは父ドウカンテスコとか母父タクラマカンとか母父ホスピタリティとかならまだしも(ダビスタ攻略本とか別冊宝島で見知った文字列だから),ピュウターグレイとかサンフォードラッドとかキャタオラとかダイシュンエイとか何系の種牡馬かすら想像できない父・母父の馬がたくさんいて,にわか知ったか競馬ファンのちっぽけなプライドを壊すには充分すぎるほど充分だった。「こんな馬の産駒がいるよ!」ってマイナー内国産種牡馬を楽しむのはまだかわいいのだ。本当につらいのは全然知らない輸入種牡馬の方だった。そもそもサラなのかアアなのかすらわからない。「こんな馬100年経っても金満血統王国じゃ言及されないんじゃないか」みたいなプロ仕様の血統が大井ですらゴロゴロしていたのだ。

と,はじめはこんな感じに打ちのめされていたのだが,中央競馬がサンデーサイレンス王国になるにつれ,生まれつきの天の邪鬼が刺激され「競馬はブラッドスポーツなんだから多様性が大事なんだよ!多様性を確保してるのは地方競馬なんだよ!裾野の広がりが大事なんだよ!」と当時の地方競馬派のテンプレみたいな言葉を嘯きながら,大井競馬場にも通うようになるのである。特に21世紀になると,中央競馬への興味がどんどん薄れていった。もともと飛行機が好きだし車が好きだし電車(含:モノレール)が好きだし昭和くさいものが好きだしなくなりそうなものが好きだった。大井競馬場の2号スタンドはそれらすべてを一望できた。大井競馬場の2号スタンドが世界で一番居心地のいい場所になってしまったのだ。時間の流れが遅かった。指定席なのに窓がなく風を感じられるのも心地よかった。最終で一発逆転ならなくても,無料はとバスに乗れば湾岸線→深川線→小松川線と走り20分で錦糸町に着くことができた(電車だと1時間以上かかる。これは電車にしか乗れない貧乏人にとっては衝撃的なワープ感覚だった)。大井の2号スタンドにはすべてがあった。

そんなことをしているうちに,競馬場の数はどんどん減っていった。中津がなくなり益田がなくなり,上山がなくなった。北関東もなくなった。「今のうちに行っておかないと,全部消えちゃうかもしれないぞ」。そう思い全国の競馬場を回るようになった。どこへ行っても「これが最後かもしれないな」と思っていた。それは帯広や福山だけでなく,船橋や川崎,名古屋や園田のスタンドさえ「これが最後かもしれない」と思わせる空気が漂っていた。自分以外に若い人間は皆無だった。この頃になると,90年代のWINSにいたような戦争で片足をなくした爺さんや,「このレースで○○(騎手の名前)買ったらダメだど。八百長野郎だからな」と訊いてもいないのに話しかけてくるコーチ屋すらいなくなっていた。足を運ぶたびにその時の経過だけ平均年齢が高くなる客。減りゆく売店。稼働しなくなる券売機。穏やかに緩やかに最期の来るのを待つ緩和ケア病棟のようなやるせなさを感じていた。



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